楽になることに価値はあるけど、楽なことに流れてはいないか
メンター、とまでは言いませんが、「気にかけている」とある人の投稿をいろいろ追いかけています。
その人は硬軟いろいろな情報発信をする人。
具体的にこんなものがよかったよ~とか
こういうテクニックを使うとより便利になるとか。
その一方で、思考のあり方とか、人生哲学についても語ったりもします。
こういうとき目に見えて顕著なのは、具体的・あるいはわかりやすいものにはみんなコメントをつけたり反応します。
その一方で、ちょっと考えないとなんともわからないようなことは単に「いいね」みたいなマークをつけて終わりにする人が多い。
私もそういう投稿はどうしてもそういうそっけない反応になってしまいがちだったわけですが、しかしよく考えてみると、果たしてどっちのほうが価値があるのか。
当然ながら、咀嚼の必要があっても理解できたときにいろいろ応用できるような事柄のほうが価値があるわけです。
なのにどういうわけか世の中は、わかりやすいことや簡単なことにばかり目が行って、考えるのが必要なことは二の次にされていないか。
だとすれば、私も周りの人々も、やってきたことは「思考」ではなく、「反射」であるわけです。
世の中、「楽にする」ことに価値があるのは事実です。同じ到達目標に行くのに、より早く、より少ない労力で着くのであれば、楽なほうがいいのは事実です。
しかし、「到達目標」がだんだん思考の外に追いやられ、いつしか「楽であること」そのものを高く評価していないでしょうか。
たとえ楽でも、到達目標が高くないのであれば、結果として価値はないはずです。
もっというと、世の中、「考えない」人からお金をむしりとるようにできています。
考えない人は、考える人に比べて不利な条件で契約を結び、割高な手数料を払い、高くもない到達点に甘んじる。どうもこれが社会の実情のようなのです。
例えば、携帯電話のプラン説明の際の注意事項は、チラシやパンフの下にとても小さい字で書かれています。この字を読んで理解しようとする人は結果として安いプランで契約でき、それをめんどくさがる人は携帯電話会社に薦められるがまま、高いプランで契約します。
果たして、私は今まで「反射」ばかりしてきました。全然思考をしてきませんでした。
ちゃんと背景や理由を考えたり、「それで次はどうなる?」ということを考えて、世の中の仕組みや今後の戦略を作っていきたいとおもいます。